Home > Archives > 2009-12
2009-12
life meter
- 2009-12-27 (日)
僕が生まれて今日の今日まで、いったい何時間経ったんだろう?
その答えを知るべく、JSTバーチャル科学館が提供する「life meter~私の時間、めぐる世界~」を試してみた。結果は330,282時間。これだけの時間が経過する間、
太陽系が銀河系の中を261,583,357,200km移動し、
ハワイが日本に226.881cm近づいて、
太陽から地球へ2,140,227,468×10(17乗)Jものエネルギーが届き、
384,431,430回呼吸して、30,144,503ccの水と
27,837,060kcalのエネルギーを摂取し、
宇宙から地球へ1,508,137,139kgのチリが降り注ぎ、
143.273cmだけ月が地球から遠ざかった。
途方もない数字なので、まるで実感がわかないけれど、宇宙や地球の歴史の中では、針の先ほどもない、ごくごく一瞬の出来事だ。それでも、なんとなく生きているよりは、時にこうして「生きていること」を考えて見るのもいい。
ところで僕は、生まれて今日まで「ありがとう」って何回言ったかな。
今年も君は、何回も「ありがとう」って言ってくれたね。
ありがとう。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
50年後も一緒に笑っていよう
- 2009-12-27 (日)

約束はほしくない。約束なんて信用してない。僕がこのまま生きたまま、この店を出れる保証などどこにもないのと同じように、誰かを幸せにするとか、絶対守るとか、そんな約束など、できっこない。僕が伝えられるとしたら、たったひとつ「希望」でしかない。僕が伝えたいのは「希望」なのだ。あなたを幸せにしたい、あなたをどんなものからも守りたい、50年後も、そばにいたい。そばにいて、あなたの笑っている顔を見ていたい。一緒に笑っていたいんだ。出来ない約束はしたくないから約束できるようになるまでは何も伝えない、伝えられない、っていう人もいる。それは違うと思う。
出来ない約束はしたくないから、約束はしない。だからせめて、希望を届けたい。そっと手のひらにのせた、この「希望」という名の小さな光を、どうか両手で、そっとすくって欲しい。そして2人の手でそれを閉じ込めて、言葉にして、伝えたい。
50年後もそばにいたい。そばにいて、あなたとずっと、笑っていたい。
明日もまた、同じことを言う。
50年後もそばにいたい。そばにいて、あなたとずっと、笑っていたい。
その次の日も、そのまた次の日にも、同じことを言うんだ。
50年後もそばにいたい。そばにいて、あなたとずっと、笑っていたい。
僕のこの言葉が、親友の女性と、その女性の年下の彼に、届いてくれればいいな。
明日が来ることが奇跡なら、その奇跡に感謝して、大切な人に、希望を伝えよう。
大切な人と、希望を語ろう。そして50年後に、2人で想うんだ。
僕らの希望は、ちゃんと叶ったね、って。
そうやって、今日の僕らのように、一緒に笑っていようね。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
ありふれた、大切な日々。
- 2009-12-15 (火)

先日、第2回「季のまま」が無事に終了した。その詳細は後日にするとして、会場で、前回の季のままの時に、丸川商店の「日事記」をご購入していただいた女性の方と再会した。「日事記つけてますよ」と、なんとも嬉しいお言葉をいただいた。さらに、「つけるのを忘れていて、1週間分くらいをまとめて書くときもあります」とおっしゃっていた。なので僕は、「何も書かない日があったっていいんですよ。何か書かなければいけないなんて、思わなくていいんです。なんにもない日だってあるし、なんでもない日だってある。正しいとか間違いとか、そんなものはないし、そんなものは、どうでもいいんです。」とお答えした。本当にそう思う。なんにもない日があったっていい。その人らしく、その人のペースで続けてもらえればいいんです。同じく、日事記を使っていただけている方々へ、テレビのCMでも使われている、天才バカボンのパパの名言をお贈りします。
「あなたは、あなたで、いいのだ。」
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
ふるさと
- 2009-12-15 (火)
僕は三重県松阪市の出身です。つまり、「ふるさと」といえば、松阪市となるわけです。が、「生まれたところ=ふるさと」という図式が、最近しっくりこないようになってきました。出身地ではなく、「ふるさと」という言葉の響きには、もっと情緒的な意味合いが含まれているように思うのです。 東京に移り住んで13年。今では、東京の自宅にいるときが一番ホッとします。田舎の実家には、大好きな犬達がいるので、それは里帰りの一番の楽しみですが、現在は姉夫婦が暮らしているので、当然のことながら、僕が暮らしていた頃の家とは、いろいろと違います。内装も違うし、ものが置いてある場所も違う。スプーン1本探すのも、どこにあるんだろう、という感じ。僕の部屋ももうないので、帰省のときは、客間で犬達と寝ます。お気に入りの本も、お気に入りのお茶もコーヒーもありません。それに対して文句を言っているのではありません。文句は何もありません。つまりは、「自分の空間」がある場所が一番ホッとできる場所であって、極端な言い方をすれば、そこが「ふるさと」なのかも知れないと思うのです。
ヤドカリは、家とともに移動します。つまりは、旅をしながら生きているわけで、ちょっと憧れたりもします。今、自分がいるところがふるさと。そう思うことも、決して悪いことではないように思います。以前、何かの本で、「人は別の地に生まれて、本当のふるさとを探して旅をする」みたいなことが書いてありました。その場に「慣れる」ことも、人が生きていく中で重要なことです。そこを好きになる、今の仕事を好きになる、今を全力で生きようと願うなら、「ここが今の僕のふるさとです。」と、言える毎日にしなければいけないかなと思うのです。
いつか出会う、「本当のふるさと」にたどり着くまで。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
山のデザイナー
- 2009-12-15 (火)

先日、若い建築家と話す機会があった。僕は常々、「デザインを突き詰めていけば、“自然”にたどり着く」と話してきた。もちろん今でもそう思っている。彼はうちで働く女性のデザイナーの友人で、彼は、彼女のことを「うらやましいなあ。」と言ってくれた。何をもってうらやましいのかはわからないけど、僕が彼女に日ごろ伝えていることだとしたらうれしいなと思った。僕は美大を出たわけでも、大手のデザイン事務所で修行を積んだわけでもなく、今まですべて、独学でやってきた。だから、スタッフにも、技術的なことは何も教えられない。技術的なことなら、スタッフのほうがよく知っている。僕はここまで、かなりの遠回りをしてきたから、「中」にいたらわからなかったことが、「外」からだとよく見えた。スタッフ達に伝えられることがあるとすれば、回り道をして感じた、僕のデザイン論くらいのものだ。
僕は建築家ではないから、偉そうに建築について語ることはできないけれど、もしも僕が建築家で、とある場所に、例えば美術館を建てるとする。そこで僕が最初に行うことは、「声を聞く」ことだ。情けない建築家だと思われるかも知れないけど、答えを教えてください、と、その「場」に乞う。そこに建つべき建築物の、あるべき姿を教えてもらう。だからもしかすると、その場には、何も建てないほうがいいって時もある。当然、クライアントの意向があるし、予算もある。納期もあれば、作品としての宣伝効果も求められるだろうから、それじゃあ仕事にならないだろうと思われるだろうけど、僕が印刷物をデザインするときも、同じように答えを教えてもらえるようにお願いしています。これからの若い建築家やデザイナーには、どうか怖がらずに、声を聞ける建築家やデザイナーであってほしいと思うのです。
うちのスタッフには、モノから愛されるデザイナーになってほしいと思う。人間様なんて言葉は死んでも言わない、常に謙虚にモノと接していれば、きっとモノのほうから愛してくれる。どうデザインすればいいのか、その答えを、モノのほうから教えてくれる。そんな、モノから愛されるデザイナーでいてほしい。僕が思うに、すでに答えはそこにあって、あとは、それを形にする手伝いをする、それがデザイナーの仕事だ。この世にないものを生み出せるなどとは、決して思ってはいけない。その声を聞けるデザイナーであるかどうか、そもそも、デザイナーである前に、声を聞ける耳を持った人間であるかどうか、僕がスタッフに伝えているのは、そういうこと。そういうデザイナーになるには、出来る限り自然の中にいること。土に触れること。水に触れること。都会の中で生活していると、悪いものをシャットアウトすることだけに長けてくる。そうではなくて、思いっきり五感を開くこと。五感の全部で感じること。答えはすでにそこにあるから、あとはこっちが、愛されるかどうか。
残念ながら都会には、本物の「色」がない。都会の街中にある、飾りとしての植物や木も、小さな公園の木々達も、僕にはみんな、死んでるように見える。彼らを見ると、たまらなく泣けてくる。ゼエゼエと、ハアハアと、息を荒げながら、人間の手によって、無理矢理に生かされてる。人間と違って、自分から死ぬことができない彼らは、どんな環境でも、ただ生きようとすることしか術がない。枯れてしまう、その一瞬の一瞬まで、必死で生きようともがいている。落ち葉を見れば、木肌に触れれば、どれだけ辛いのかが伝わってくる。だから僕には、都会に立つ木々達の下で、「やっぱり自然っていいわね。ホッとするね。」と話している人達の姿が滑稽で仕方がない。木々や葉っぱ達は皆、惨状の中で、痛々しく、それでも、立っているんだ。だからうちのスタッフには、そんな声を聞けるデザイナーであってほしいと、心から願う。
僕は山の中で育った人間だから、あたりまえのように、山があり、川があった。自然の中の木や花や葉っぱ、鳥達の羽や虫たちの、あの見事な装飾には、とうてい人間などには辿り着けない、命がけのデザインがある。建築でも、ウェブでも、グラフィックでも、インテリアでも、工業デザインでも、デザインと共に生きるなら、そこを忘れてはいけないし、そこから多くのことを学ぶべきだ。建築家の彼にも、建築家であればこそ、「そこに木とか植えればそれっぽいよね。なんか、ナチュラルさを演出できるでしょ。」というようなことを、軽々しく思ってほしくない。まずは、声を聞く。聞けるデザイナーになる。そんなデザイナーが、もっともっと増えてほしいし、僕ももっと、そうなれるように努力を続けていけなければならないなと、彼と話していて、改めて思った。僕は山から多くのことを教えてもらった。これからももっともっと、たくさんのことを学んでいきたいと思う。いつの日か、胸を張って、「山のデザイナーです。」って、そう言えるように、なりたいと思う。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
「普通」のかっこよさにこだわってみる
- 2009-12-10 (木)

僕のデザインは常々、「普通」を目指してきた。それも単なる「普通」ではなく、かっこいい「普通」だ。わけがわからないと言われてしまいそうだが、僕の思う「普通」とは、必然が作った偶然、または偶然が生み出した必然、とでも言うか、その形や色に、ちゃんと意味があって、その意味とは、人の目を惹きつけることでも、人に持てはやされることでも、ましてや流行などとは無縁の、「実用」という名の意味だ。例えば、川へキャンプに行って、ちょっと座りたいなという時、人は無意識に、座るのに適した形の岩や流木を選ぶ。その形は、人が座るために考えて作り出されたものではなく、たまたまそんな形をしていただけに過ぎない。でもその形をよく見てみると、実にスマートで、実用的で、かっこよかったりする。その岩や流木は、その場において、特別ではない。飛び抜けて輝いているわけでも、人の目を奪うような鮮やかな色でもない。周りの景色と完全に同化しているその岩や流木は、その場において、限りなく「普通」な存在なのだ。僕は、そんな、かっこいい「普通」を目指している。
海外では、そういったものを、アフォーダンスと呼ぶ。先の例で言えば、岩や流木は、人の座りたいという欲求に対して、座る機会や行為をアフォード(与える、提供する)している、ということだ。日本でも、デザイナーの深澤直人氏が「without thought」という言葉で体現している。深澤氏によれば、雨の日、ドアの前に傘を置こうとしたが傘立てがなく、仕方ないから、床のタイルの目地のくぼみに、傘の先端を置き、そのまま壁にもたれさせて傘を置く、といったよくある行動においても、そこには、タイルの目地のくぼみが、傘を置きたいという欲求に対してアフォードしていて、そこにこそ、目指すデザインがあると説く。もちろん僕も、この思想に大賛成だ。僕が深澤氏の作品の中で好きだと感じるのは、これらの意識が感じられる作品。感じられても、頭では理解できても、心が感動できない作品に対しては、残念ながら興味がわかないので、何が何でも深澤直人!という深澤直人マニアな人達とは、お友達にはなれないが。
実は日本は昔から、それもかなり前から、そんな、かっこいい「普通」を体現したモノがたくさん作られてきた。僕が心を奪われるのは、例えば「道具」である。農具にしても、文房具にしても、工具にしても、道具の持つ実用性と佇まいには、素直に感動する。古民家などにも、同様の素晴らしい「工夫」という名のデザインがある。さらに、もっとも心を奪われるのは、なんといっても「自然」。石ころひとつ取ってみても、花や葉にしても、鳥の羽や、虫達の見事な色彩にしても、そこには無限のデザイン性と感動がある。例えば農具にしたって、農家の軒先に置いてあっても、あまり人はかっこいいとは言わない。なぜならそれは、装飾品ではないからだ。飾るためではなく、使うために考え出された形。その農具は、その場においては、やっぱり限りなく「普通」な存在である。そこがやっぱり、かっこいい、のである。
僕はきっと、この先もずっと、飾るためのものはデザインしないだろう。あくまでも、何かの道具であり、その場において「普通」なものがいい。丸川商店のデザインの基本は「そこにあって、そこにないもの」。その場において、必要以上に主張するものは好みではない。かっこいい人には憧れるが、僕がそうなれるわけではない。デザインをしながら、「かっこつけるな、カッコ悪い。」と自分に言い聞かせながら、今日もうんうんと考える日々である。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
AQUARIUM
- 2009-12-09 (水)
アクアリウムという、女性だけの演劇集団がある。かつてはメンバー達とも交流があったが、もう何年も会っていない。そんな彼女達から、公演のチラシが届いたが、あいにく都合がつかず、また会いに行けなかった。女性だけの演劇集団だが、宝塚のようなものではない。純粋に「芝居」の集団だ。ストイックに演劇に立ち向かう彼女達は、陳腐な言葉に聞こえてしまうかも知れないが、単純に、純粋に、かっこいいのである。
他人から見れば、彼女達は、理想の中で生きているように見えるかも知れない。でも彼女達は、その中でもがいて、苦しんで、それでも信じる先へ進むことでしか、「生きている」ことに触れていられないのかも知れない。プラスティックな人間が多いこの世の中で、彼女達は間違いなく、生身だ。それゆえに、歩きづらいこともあると思う。それゆえに、苦しいし、それゆえに、悲しい。
彼女達があの頃のまま、今でも活動を続けていることが素直にうれしい。あの頃から彼女達は、うんと透明で、僕はもっと、汚れていたのだなと、今は気づく。底抜けに明るくて、どこまでもあったかい。いつかは時間を作って、彼女達にまた、会いに行こうと思う。「人は決して1人じゃない」なんて事が、本当にあるんだと思えなくなってきた頃、彼女達に会いに行けば、その答えが、きっと見つかると思うから。みなさんも、機会があればぜひとも。
▼演劇集団アクアリウム
http://www.hpmix.com/home/aquarium/
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
手帳
- 2009-12-01 (火)

僕はかねてから、いろんな場所で、いろんな機会に、「デジタルだけでもだめ、アナログだけでもだめ、両方のバランスが大事」と言い続けてきましたが、ことスケジュール管理に関しては、デジタルだけの状況になっていることは否めません。現状は、グーグルカレンダーとiPhoneを同期させて、スケジュールを管理しています。でも、これじゃあだめだということで、スケジュール管理ができる手帳を探してはみましたが、なかなか良いものがありません。かといって、日事記や百人帳のように、自分で作ると言っても、いろいろと問題や課題があります。やっぱり既製品で気にいるものに出会うまではデジタル管理になるのかなあ~と思っていたところ、ついに出会いました。なかなか良い手帳に。知り合いのカメラマンが持っていた手帳を見て、これいいねえ、と。
教えてもらったそれは「ハイタイド」というメーカーのもの。シンプルだけど実用的でもある。これ欲しいなあとつぶやいたら、カメラマンの知り合いのお店で扱っているとのこと、早速、奥さんと2人で購入してみました。これまでのデジタル管理も続けつつ、アナログ管理もこれでバッチリ。スケジュールはハイタイドで、アイデアやスクラップは百人帳で、書くことが多くなって大変そうだけど、書くことは無条件で良いことなのだから、今年はこれで行くとします。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
Home > Archives > 2009-12
- Search
- Feeds
- Meta



